ゆとぶろ

IT業界在住ダラリーマンの日々徒然

2020/06/11に祖母が亡くなった話

はじめに

昨日のブログはお休みさせてもらいましたが、そこでも少し書かせて頂いた通り母方の祖母が92歳で他界し通夜~葬式まで参列してきました。色々と心に浮かんだことを今日は書き留めておきたいと思います。

 

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92歳の祖母の近況と最期の時

3年前に祖父が先立ちましたが、その前から少しづつ進行していた認知症が祖父が居なくなってから急速に進行していました。叔父が家族ぐるみで面倒を見ていましたが、深夜の徘徊も増えさすがに家族で見守るのも限界だったようで、2年ほど前から完全に施設に預けている状態でした。

 

私も1年前に母・兄と一緒に施設まで面会に行きましたが、髪は真っ白になり、私たちを見ても誰か分からない状態でした。何となく他人ではないということは理解はしていたようですがどうしても記憶と一致しないようで、その時私のことはご近所の青年だと勘違いしていたようですw

 

しかし体は大変頑強で、足腰も元気で病気1つしていませんでした。食事も食べたことを忘れることはしばしばだったようですがキチンと3食食べ、認知症なりに元気に暮らしていたと聞いており安心していました。

 

訃報を聞いたのは木曜日の夜で、その日の朝施設の方が様子を確認しに行くと呼吸をしていなかったとのこと。急いで叔母が駆け付けたところどうやら痰をのどに詰まらせてそのまま息を引き取っていたようです。叔母が駆け付けた時にはまだ少し体温があったようですが、その後すぐに冷たくなっていき旅立っていったことを悟ったと言っていました。

 

祖父が亡くなった時に、祖母が「じいちゃんと離れたくない、一緒に寝る。」といって片時も亡骸から離れなかったことや、葬儀が終わった後は「はよ、じいちゃんところに行きたいわ」としきりに話していたことを思い出します。認知症で自分の人生を自由に謳歌することもできなかったでしょうし、私含め親戚一同は「ようやく祖父の元へ行けたね。」という気持ちでした。

 

そのような背景がありましたので、悲しみはもちろんありますが、それよりもお疲れ様でしたという気持ちが強く、通夜も葬式も悲しみに包まれてというよりは穏やかに終わったかと思います。

最期の時に苦しまなかったかどうかだけが心残りでしたが確かめるすべもありませんし、つらい闘病生活や痛みを伴う最期ではなかったので良かったのではないかと思っています。

 

危惧していた相続争い

私がこの知らせを受けた時に危惧していたのは相続争いでした。祖父母には私の母を含めて4人の兄弟。親戚は皆私個人に対してはいつも優しい叔父・叔母ですが、やはり祖父が亡くなって以降はしばしば揉めることもあったようです。

 

特に直接世話をしていた叔父夫婦と叔母たちの間で金銭的な部分で意見がぶつかることが多かったようで、末娘の母はいつも口喧嘩をする両者の間に巻き込まれてはつらい思いをしていたようです。

 

そんな状況でしたので、通夜や葬式の席ではそういった醜い争いを目にするのではないかと私個人的には大変危惧をしていましたが、実際の現場では特にそういった話題が上がることもなく取り越し苦労でした。

 

もしかすると我々甥・姪や親族たちが集まる前に既にひと悶着終えた後だった可能性も0ではなかったですが、わざわざ藪蛇をする趣味はありませんし今後も特に関わらずに居られたら思います。

 

私も既に父を亡くしており、相続関係では人の醜い争いを目にしてはうんざりとした気持ちになる経験も多々ありました。きっと全国の皆様が似たような状況で苦しまれていることと思います。

 

なかなか全員が納得する形というのは難しいと思いますが、生前から本人がはっきりと意志を明確にしておくであったり、家族間でも事前に取り決めをしておくことを切におススメしておきます。

 

葬式の席で見る選挙活動?

祖父母は決して裕福な家ではなく、生前も特に政治活動には熱心ではありませんでしたが、葬式の来賓席に何名かの議員さんが参列していたことが大変な驚きでした。

 

認知症だった祖母が政治活動などしているはずもなく、親戚の誰かが呼んだ可能性も…まぁ0ではありませんが心当たりはありません。とすると、何の縁もゆかりもない議員さん達がなぜ私の祖母の葬式に参列する必要があるのか?

 

・・・まぁ、こういった草の根の選挙活動としか考えられないなという結論に私は至りました。

 

一応少しグーグル先生でググってみたところ、公職選挙法で政治家の寄付行為にあたるとして花輪などを出す行為は禁止されているようですが、地区によっては政治家本人が自ら出席する葬式や通夜における香典はOKな場合も多いようですね。

 

www.soumu.go.jp

※政治家本人が結婚披露宴、葬式等に自ら出席してその場で行う場合は罰則が適用されない場合があります。

 

身バレはしたくありませんし、へんな揉め事に巻き込まれるのもゴメンですのでこの程度にしておきますが、いやはや、こんな草の根活動みたいなこともやるんだなと何とも言えない気持ちになりました。

 

善意で来てくださったのならば「ありがとうございます」というより他ありませんが…ねぇ?普通に考えて縁もゆかりもない認知症のお婆さんの葬式に、政治家先生が参列される理由なんて他にありますかねぇ…と邪な勘繰りをしてしまったことを記録しておきます。

 

祖父母が遺してくれたエピソード

なんとなくネガティブな話が続いたので、最後に祖父母が遺してくれたエピソードのなかで印象深かったものをとりとめもなく。

 

祖父は戦時中実際に戦地に足を運んだそうで、中国大陸への増員のため船で大陸に降り立った辺りで終戦を迎えたそうです。実際に戦闘は経験せず、復員船でそのまま帰ってきて桜の葉巻をもらったという話を酒の席でしていたのを覚えています。

 

その後はいくつか事業に挑戦するもうまくいかず、生活はかなり苦しかったようですがその詳細はあまり語らない人でした。林業や行商のようなこともしていたようですがなかなか稼ぎが出ず大変だったようです。

 

私のよく知る晩年は釣りを趣味に半分農家・半分山師のような生活をずっと続けていました。遊びに行くと昼間は竹細工と農作業を、夜は釣った魚や猟銃で落とした鳥をあてに焼酎で晩酌をするのが日課の穏やかな日々を送っていたと記憶しています。

 

病気になっても我慢強い人で血管の手術を何度もしましたが黙して弱音は語らず、退院許可も出ていないのに勝手に退院する計画を立てているような人でした。毎日農業日誌をつけており一度読んでみたかったのですが、祖父が亡くなった際に処分されたのが残念でした。

 

祖母は私が帰るとかならずゼリーと釜で炊いたお米でおにぎりを作ってくれました。正月には必ずお餅をついてはふるまってくれてましたね。母を含め娘・息子達には生活が苦しかったこともあり大変厳しい一面もあったようですが、孫の私にはいつも何かとお菓子やジュースをくれる優しいおばあちゃんでした。

 

どうも基本的に料理は苦手だったようで、お味噌汁がとても辛かったのをネタにされていましたが、毎日18:30にはキッチリ夕食を準備し、こたつでお茶を飲んでは世界ふしぎ発見を見るのを楽しみにしていた姿をよく覚えています。

 

畑で野菜はもちろん、しいたけ、柿、ぶどう、みかんなど思いつくものを植えてみてはふるまってくれたのも覚えています。たけのこ堀りは一番上手でしたし、犬の散歩も毎日欠かさず、70を過ぎても全力疾走が出来るくらい足腰丈夫で元気なおばあちゃんでした。

 

また祖父母からではなく叔母から聞いた話ですが、どうやら老後に備えて二人で出稼ぎのようなこともしていたらしく、祖父がサワガニを養殖して福岡の老舗旅館に売りに行って稼いでいたらしいというエピソードもあったとか。

5,000円/1kgとなかなかの値で取引していたようで、早朝夜もあける前から祖父母二人でハイエースにサワガニを積み、ご飯に卵焼きと味噌を塗った質素な弁当を持っては二人で福岡まで売りに行っていたとか。捌き終わると荷台が空くので、そこに布団を敷いて2人で寝泊まりしていたとかなんとか。

もしかすると今だと違法なのかもしれませんが、おおらかな時代だったんでしょうね。想像するだけで何だかニヤけてくる良いエピソードだと思います。

 

これだけたくさんの思い出が頭に浮かぶほど、多くの時間を過ごし、二人に見守ってもらったんだなということに感謝の思いは尽きません。 

 

私が3歳の時に母が離婚して帰郷した際、一時期祖父母の家で生活をしていたこともありましたので、特に私は祖父母には可愛がってもらったし私自身も大好きなおじいちゃん、おばあちゃんでした。

 

大人になった今だからこそ生前は楽しいことばかりではなかったであろうと想像できますが、それでも私の目には優しく穏やかで温かい夫婦に映っていました。

 

おばあちゃん、やっとじいちゃんのところいけたね。

二人が安らかに眠れますように。本当にありがとう。お疲れ様でした。