ゆとぶろ

IT業界在住ダラリーマンの日々徒然

COVID-19が「会いたい」に与えた影響

 

 今週のはてなお題「会いたい人」

…だそうです。会いたい人かぁ…と考えてパッと思いつかない自分がいました。

久しく会っていない学生時代の友人達にはそりゃあ会いたいです。仕事の仲間や後輩たちが元気にしてるか、顔を見たいなぁとも思います。会って近況を話し合い酒でも飲めれば何も言うことはありません。

 

今の私には「無理を言ってまで会いたい」と思う人は思い当たりません。「今すぐどうしても会いたい人」は正直いない。「会えるなら会いたい・会えたらいいな」人ならいる。そんな温度感です。

 

言葉にしてみて何となく感じたのは、「会いたい」とストレートに表現出来るのはある種の才能ではないかという気がしてきました。

 

「会いたい」は相手の迷惑を考慮すべきなのか?

COVID-19(新型コロナウイルス)による自粛期間が続く今、会いたい人に自由に会えない。満足に外出も出来ない状況が続いています。「会いたいけど会えない、そんな気持ちを文章にしてみよう!」…そんなコンセプトをこのテーマから感じました。

しかし、もし仮に現状のCOVID-19に関係なく平常時に同じ質問を投げかけられても、私は同じ回答をしたと思うのです。私は普段から誰かに「会いたい」とストレートに表現をすることが出来ない人間なのだと思います。

 

「会いたい」というのはかなりストレートで、エモーショナルな表現です。誰かに「あなたに会いたいです!」と言われれば基本的には嬉しいものでしょう。

しかし捻くれ者である私はそんな気持ちと同じくらい、「それは会いたい人の時間を奪う行為ではないか?」要するに「もしかしたら迷惑じゃないですかね?」という気持ちも同じくらい感じるのです。

 

お互いの会いたい気持ちが合致するなら会いましょう。でも、お互いに無理も無理強いもしたくない。それが私の気持ちのようです。

 

でもきっと、純粋な「会いたい」にはそんなめんどくさい前置きは要らないんでしょうね。「会いたい」を遠慮なく言える人、私から見てもやっぱり魅力的だと思います。言われたら何だかんだ嬉しいですもの。

 

そしてそれが言えるのは一種の才能だと思います。

でも、「会いたい」の中にも「能動的な会いたい」「受動的な会いたい」が存在しており、どちらも尊重すべき「会いたい」なんだと思います。

「会いたい」と素直に伝えられる才能と、「他人の会いたいに応えられる会いたい」のどちらもが優しく共存できるのが理想だと思いました。

 

COVID-19が見せた未来型の「会いたい」

COVID-19はそのそんな両方の「会いたい」を物理的に遮断させたとても稀有なファクターだと思います。ここまでグローバル化で人の行き来が容易になった今、そんな分断を引き起こすのは戦争くらいだと思っていましたが、まさかウイルスがその要因になるとは、誰が予想したでしょうか。

 

物理的遮断が発生した時、能動的「会いたい」の方はかなりストレスを感じたことでしょう。受動的「会いたい」の方にとっては、あまりストレスはなかったかもしれませんが(私は結構平気でした)やはり誰にも会えない寂しさは感じたことでしょう。

 

5/14に一部の特定都道府県以外の39県では緊急事態宣言が解除され、少し人の行き来が身軽になりました。

www.watch.impress.co.jp

しかし、コロナは一旦国内で沈静化しても今後必ず世界のどこかでまた一気に広がり、再び戻ってくる厄介なタイプのウイルスです。

 

今までの「会う」がまた同じように遮断された時、私達はどう未来型の「会う」を形にできるのか。Zoom飲み会に代表されるようなテクノロジーを使ったの試みがその鍵になると思います。

telling.asahi.com

これらテクノロジーによる解決策と同時に、私達自身もまた今までの「会いたい」という行動自体を変容させる時が来ているのかもしれません。行動を変えるには我々のマインドセットを変えないといけません。

 

その「会いたい」はZoom(リモート)じゃダメですか?

そんな時代がもう来たんですね。COVID-19が見せているのは、私達の新たな未来の姿なのかもしれません。私個人としては、「結構アリかな」と思ってます。

まとめ

こんなひねくれ者の私に対してもいつも「会いたい」を伝えてくれる全ての人に「私も会いたいですよ」と返したい。

いつもありがとう。でも無理はしないで下さい。忙しかったらZOOMでいいですよ。

無理して会ってくれてるのに気づいたら悲しいですから。